back number, No.62

2023-09-21
百花騒鳴

新車

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欲しかったモノが手に入るのは、誰だって嬉しい。ましてや、大枚を叩いた自分へのご褒美であれば尚更。私の古い友人も、以前大きな買い物をした。日本の道路では性能を持て余す、流麗なフォルムのスポーツカーである。納車したばかりで、「どのボタンを押せば、どうなる」なんて事もよく分からないまま、友人と私はドライブへ出かけた。出発の時点でかなり夜が更けていたが、「駆け抜ける喜び」を実感したいと言って、静岡市の最北部ともいうべき山間の井川エリアへ向かった。市街地から離れるに連れ、道は徐々に狭くなっていく。街頭のない山の陰は、漆黒と言っていいほど暗い。そこを切り取るように、ヘッドライトが直線的に照らしていく。なんとなく、心細くなる。車内の会話も途切れがちになった頃、地元で知られる大日峠にたどり着いた。黒く塗りつぶしたように真っ暗の中、変形の十字路が浮び上がっている。見知らぬ山奥の辻に、私たち以外は誰もいない。急に得体の知れない恐怖心が込み上げてくる。左右に伸びる道から、何かやって来そうな気がする。いや、背後から現れるかも知れない。こんな道の真ん中で長居は無用だ。さっさと車を発進して欲しいと思っているのに、なぜだか友人がもたついている。「え?あれ?何?」と困惑した様子で、暗い中に浮かび上がるナビ画面を操作している。その状況に、私の恐怖心はフルスロットル。無言のまま一人勝手にパニックを起こし、あろうことか運転席と助手席の間にあるスタートボタンを押してしまった。一瞬にして、車のエンジンは止まり、友人が必死に見つめていたナビ画面もシャットダウン。その事態に、今度は友人が大パニックを起こした。

「ギャー!何!何が起こったの?急に、急に、車のエンジンが止まった」

まるで、心霊現象と言わんばかりに、恐怖に慄いている。ドライバーにとっては、ただ道に迷っていただけなのに、暗い道の真ん中で急に車のエンジンが止まったら、それは怖いことだろう。もう、あまりの慌ててように、「私が犯人です」とは言い出せない。その後も、ドライバーの緊張は終始解れないままだったのだろう。人家の灯りが見えるまで、左右に車体を揺らして進んでいった。私は、謝罪の気持ちと酸っぱいモノが胃の腑から込み上げてくるのを感じながら、目を閉じて静かにシーベルトを握りしめていた。

 

今号も最後までお読みいただきありがとうございました。

次回は、柚子の香る頃に冬のお便りをお届けいたします。

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